ひろがっていこう

いつも無意識のうちに自分を守ろうとしている。
それは勿論悪いことではないけど 
あんまり良いことでもないのかもしれない。
 
オープンに 
オープンに 
シェアして
ひろげて 
 
 
恥ずかしいとか 
大して価値がないかもしれないとか 
自意識過剰は放置しちゃって
  
 
オープンにしていく。
 

その結果 
必要としてくれる人に
きちんとつながることの方が 
大切かもしれない。

 
自分を守ろうとする事よりも 
守らなくても大丈夫なんだと知ることの方が 
 
 
私を強くしなやかにさせるのかもしれない。

すぐに忘れてしまうから

私たちはすぐに忘れてしまう
 
 
自分がどれほど尊い存在か
どれほど細胞のひとつひとつが愛で組成されているか
 
自らが塞いでしまわないだけで
どれほどの光を放っているか
 
ただそこに居るだけで
あなたがあなたで居るだけで 
エゴの作り出す
恐れや怒りや不安に惑わされないで
ただ愛で居るだけで 
 
どれほど尊い仕事をしているのか
 

いつもは出来ないけど、出来ない時こそ必要な時

いつも、いつも、 
自分のすべてをゆるして、 
受け入れて、慈しんで、愛して、 
そうありたいと思う。 

それが出来たら周りの人にも優しくなれるから。
 
でも同時に、そう出来ない時の、 
愚痴っぽい、僻みっぽい、 
ネガティヴ思考で不安な自分には、 
なおのこと…より一層、思いやりと愛が必要だ。
 
完璧主義も別に悪い事じゃないし、 
ベストを尽くしたい、 
努力家なのも尊いものだし、 
 
だけどそれが「私は出来た(私は頑張った)んだからお前も頑張れ(甘えるんじゃねぇ!」 
という攻撃に転じてしまう時には要注意。
 
要注意というのは 
 
絶えず自分を見張って 
悪い事(攻撃)したら罰しろという意味じゃないよ。 
 
むしろ(攻撃したくなったら)、あぁ、ここまで我慢させちゃってたんだね、 
無理させちゃってたんだね、ごめんね、 
って自分に言ってあげる時。 
 
優しい世界に還っておいで。 
 
キツイ時は助け合おう。 
 
 
いつも完璧じゃなくて良い。
 

誰かを大切に思うこと

 

自分より大事だなと思う存在
そんな生命体に出会う事は 
人生の最大の喜びであり
同時に不安でもある。
 
この子はこの先も健康でいてくれるだろうか
勉強は大丈夫だろうか
なるべくずっと幸福が続くだろうか
傷ついた時も立ち上がれるだろうか
その怖さを本当の意味で乗り越えていく為には 
 
一生懸命に
子どもの歩く道を舗装していくことではなくて
はい
やっぱりここでも
「私は大丈夫」
を耕して行くしかないんですよね。
 
傷ついても大丈夫 
 
幸せと不幸があっても大丈夫
 
怪我や病気をする事があっても大丈夫
 
勉強出来ても出来なくても大丈夫
 
何があっても大丈夫
 
私の中に大丈夫を耕して 
その結果
他の誰かの内側にも 
「大丈夫」を映し出す事が出来るようになる。
 
 

私が思う事

幸福の絶頂にいる時 
喜びが爆発している時 
  
 
その正反対の場所に居る人の事を思う。 
  
 
ただただ 
そこにずっとある愛を 
忘れて 
自ら分断しているだけの人の事を。
  
 
あなたが
産まれてきたって凄いこと。
私も 
生きてるって凄いこと。
 
 
それ以外は、ぜんぶオマケだ。
 
忘れてても大丈夫さ。

地球人のおしごと

私にとって 
今のお仕事(心理セラピスト)は、 
 
ラクな仕事ではないです、
ラクな仕事ではないけど、笑
 
喜びでもある。
 
全員に必ず予め備わっている 
生命の光の無限のパワフルさ 
無条件の愛 
静けさ 
何にも縛られていない 
自由を 
 
少しずつ
思い出して 
取り戻してもらうのが 
私のお仕事。
 
エゴはいつも不安ベースで 
○○しないとダメ 
○○じゃない自分はダメ  
○○が無い私はダメ
と、 
 
足りないものばかり数えるけど 
 
それはまったくの嘘で 
何の根拠もない。
 
何も持たなくて良い 
すべては揃ってる 
私たちは大丈夫。
 
その事を 
魂が思いだすように祈ること。
 
そして、一生、思い出せなくても 
問題ない事を知っていること。
 
つまり 
愛で居ることが、お仕事です。
 
(これはでも、
地球人全員のお仕事かもしれない)
 
 

何度も、何度でも

 

何度も言ってるけど、何度でも言うけど、  

私は、クライアントさんから出て来る 
「何か悪いもの」に影響されないように
「自分を守った」り、しません。
 
何も悪いものなんて無いよ。
何も悪いものなんて無いんだよ。
 
あなたにも、私にも、 
「悪いもの」なんて無い。
 
それをよく知っているから、
怖れる必要がないだけ。
 
私があなたより
強い訳でも偉い訳でもない。
 
ただ、よく知っているだけ。 
 
怒りも恐れも嫉妬も、 
どんな痛みも、 
 
ただ本当の姿が覆い隠されて、 
一見悪いものかのように、 
怖いものかのように見えているだけ。
 
本当の姿はいつも、すべて、何かの光。 
 

わたしたちは

 

私たちは簡単に傷ついてしまう。 

身体としては
何年生きていても
心は柔らかく子どものままだ。
 
目を逸らされたら不安になり
罵られたら悲しく怒りが湧く。 
 
 
何歳になっても 
いとも簡単に傷ついてしまう。 
 

それが過去の痛みに紐付く傷なら 
古傷ごと疼き 
「私は大事にされる存在ではない」
というビリーフが太く硬く育っていく。 
 
 
傷つくのは一瞬で 
癒すのには時間がかかる。 
 

不安になるのは一瞬で出来る。
安心感を取り戻すのにはその何倍もかかる。
 
 
こんなに効率の悪い柔な心を持って   
どうして生きていかなければならないのか 
 
こんなに面倒くさい
捻くれた
頑固なインナーチャイルドと 
いつまで共に居なければいけないのか。
 
 
 
そうまでして私たちは 
愛を学ぼうとしているんだと思う。
 
どこまで傷ついても 
愛が見放したりしない事を 
 
人生をかけて試しているのだと思う。 
 

あらわれ方が違うだけ

誰だって、
happyで、軽やかで、爽やかで、優しい、
余裕のある人が好きだよね。
  
 
それはそれで当たり前だし
それで良い。 

けど、
わたしはもう…
 
 
重たくて泥々で、
怒りや哀しみでいっぱいの時も、 
絶望の中で100%孤独な時にも
 
 
等しく本当のあなたは光だということを
私はそれを知っているんだよ。
  
 
どうしようもなく知っている。
  
 
 
 
だから私はもう
ネガティヴを
本当の意味では、嫌がったり出来ない。
  
 
 
(勿論、反射的に嫌がる事は普通の反応としてあるけど)
 
 
愛しかない。
 
 
孤独や絶望や 
怒りもすべて
 
 
愛を求めている声だ。
 
本当の私はこれじゃないって
元の姿に戻りたいって
訴えている声だ。
 
 
現れ方の違いだけだ。
 
 
 
知ってしまったから。
 
 
大丈夫だよ。 
 

優しく出来ない時こそ

取り立てて誰にも褒められないような、
何にも良い事してないような、
大して生産性の無さそうな、
そんな人ほど、 
本当は褒めてあげないといけない。

誰も褒めてくれない時ほど、 
自分で自分を褒めてあげないといけない。
  
 

優しくして貰えない人ほど、 
1番優しさが必要。

誰にも優しくしてもらえない時ほど 

自分で自分に優しくしてあげる必要がある。   
 
 
足りないから 
より一層足りなくなる仕組みなの。
  
 
切ないことだよ。
  

難しいけど 
本当にそうなんだよ。
 
 
1番優しくできない時こそ 
 
1番優しくしてあげないといけない。
 
 
あなたはあなたを
諦めたらいけない。
 
 
私は私を 
諦めたらいけない。